昭和40年11月17日 朝の御理解
小倉の桂先生が、九州に布教にお見えになられます時に、二代金光様、四神様がご神前にお供えしてありました「だいだい」ね、みかんの一種です。お正月の時に使います。「だいだい」を下げられてその「だいだい」を桂先生に渡され、そして、「だいだい丸くなるのも和賀心、まるくならぬも和賀心。おかげは和賀心にあり」というお書き下げと共にその「だいだい」をお下げられた。その「だいだい」が硬直してしまった、いわゆる、からびてしまってですね、そのまま、あー、現在小倉の宝物、宝物というよりも御神殿にそれをお祀りしてある。内殿、あの御神璽と一緒に御祀りしてあるそうでございますね。「だいだい」がもう70年にもなる、まだ、そのままの形でですね、そのまま固まって堅くなってしまっておる、乾燥して。「だいだい」を下げられてから、「だいだい丸くなる治まるのも和賀心、丸く治まらんのも和賀心」、ですから、私共の丸く治まると言う事が、結局、和賀心という事になるのですから、信心はその、自分の心が丸く収まる事、そこん所を、私はおかげを願う前にまず自分の心を御繰り合わせを願い、形のお繰り合わせよりまず、自分の心のお繰り合わせを願えとこう仰る。ね。
ところが私共の心程、最低な事から、最高の事までもう本当に、もういよいよ皆さん(?)ないですから、もう自分が最低だと思うような事、自分の心の中に思うておる事。お金の足りんときはもう本当に、もうお金の事ばっーかり、もういよいよ足りんとこれは私本当に思うたんですから。ね、お神さんにお参りしよる途中ですよ。お参りしよる途中に思いよる。「はあー本当にひょっとしてここに金がおちておらんじゃろうか」と。ね、「おかげを頂いてからお金の(?)じゃろうか」と、ね、「百円落てておればもう、あれもこれも借金払いも出来るし」、ね、恐らくそいういう時には自分の心の中にです、とても落ちとった金を、警察に届けるといったような心はない、自分で猫ばばしようと思うとる。ね、本当に最低でしょうが。お神さんに参りよる道すがらにそんな事を考えていきよる。本当にぎりぎり足らん事なってみなさい、そんな事になってくるんですよ。まあ、そこまではいかんに致しましてもですね、いよいよ足りなければ向こうから金持ったあーその、ごたっとがきよんならば、それば強奪しようとかね、殺してからでも取ろうかといったような事を、ひょっとすりゃ思うかもしれないですね。そんなに恐ろしい、心までおこすような事があるかもしれません。私、殺そうとかなんかち思うた事はないけれども、(笑)「拾うとるならもう出しゃせん」ちいうごたる気持ちまで私の心にも感じた事はあるのです。しかも、神様に参りがげですからね。こういう心で神様がお与え下さるはずもなからなければ、おかげを下さるはずもない。集金にでも行くときには、どうでも一つただ集金がよりますような気持ちじゃいかん。相手の人のお繰り合わせを願わにゃいかんというのもです、やっぱそういう事を教えておられるのです。ね。取ろう、ね、集金をする時にお金をもらいに行く、どうでもこうでも一つもろうてこなというのではなく、自分の心の、心配りというものがです、どうぞ、私も必要だけれども、先方も(?)お繰り合わせ頂かなならん、先方のお繰り合わせを願わなおられんというような、心でいけばおかげになるのだけれども、こちらがとらなならん為にその、ただ、先方の事を祈るといったような事ではいけませんけれどもですね、自分が難儀をしておるなら相手も難儀、こまっておられるのであるから、相手の難儀を願わせてもらうような心こそ神様に通う。だから、思いもかけないお繰り合わせを頂くという事になるんですね。
断食でもさせて頂いてから、ひもじい時にはね、ジーと食べ物の事ばっーかり、こげないやしい心は自分の心にはないと思うとるのだけれども、そんな事ばかり、食べ物の事ばっかり。ね、いかに、私共の心というものが豊かに、美しゅうならせて頂く事を願わなければならんかという事が分かります。ね、そういういやしい心、汚い心。かと思うとまた私共の心も、本当に最高とこれが、これが神様の思いなさるような心じゃろうかという心を使う事が出来ます。
「木の切り株に腰をおろしても、立つ時には礼を言うような心持ちになれよ」とこう仰る。ですから、私共がですどういうような場合でも、立つ時には、立つ時には、例えていうならば、んー下駄を履かせて頂いて、それを脱ぎ捨てる時にお礼を言うような心持ちなんです。ね、それは、木の切り株や下駄やらの事だけではありません。様々な事情の場合でもです、その事情のおかげで私が、清まりましたと、その事情の、心配事なら心配事のおかげでえー、「分からせて頂くところが分からせて頂きました」というような場合には、その難儀なら難儀という事情に対してでも、やはり立つ時にはお礼を申しあげるそういう、お礼を申しあげれるような心におかげがあるのです。ね、ですから、ただ、木の切り株に腰をおろしても立つ時には礼を言う心をです、いつも忘れん事しとこうと、さあ、自転車に乗って来る時にです、拝んで乗らせてもらいうけれども、乗って降りる時にはいわば乗り捨て、忘れてしまっておる。はあー忘れておった、途中で思いだしてからお礼を言う。そういう意味じゃあないです。ね。もう忘れられないいつもそういう心持ちでおるという事。ね。そういう心を私は願わなくてはならんとこう思うのですね。
おかげの形のお繰り合わせよりもまず心のお繰り合わせを願わせてもらわなければならんのは、そういう訳。そこんところを私共が分からさせてもらうと、現在の心の状態では成程、難儀するはずだなあと、いつも欲しい欲しいと、自分の心の中に丁度、もうお腹が空いて空いてたまらん時のような状態で食べ物の事ばっかり、いやしい事ばっかり、考えて心に浮かぶような事では、まだおかげにならんという事を思わなならんですね。こんなに最低な心ばかりが心の中に動きよる。これではおかげにならんとまず、私は思わないけん。そこで、私は形のお繰り合わせよりやはりまず、心の御繰り合わせを願わせてもろうて、しかもその、有り難い心がです神様だけにむけられるだけではなくて、人にも配られる。心配する心で信心せよと。心配とは心配りと書いてある。ね。その、心がです配ってもおかしくない心を頂かせてもらわないけんと。皆さんが良いものを配られますとまた良いものを配り返しがくるように、私共の心の上にです、ね、もう本当に自分の関係のある人達だけではありません。袖すりあうも多少の縁というのでございますから、誰にでもかれにでもです、本当に良い心をいつも配らせて頂けれるだけの心というものがこれになからなければ、良いものが配り返してくるはずがありません。ね。自分の心配り、こういう最低な心を配ったんじゃあ、最低なものしか配れ返されないのであり、こんな最低な心では神様に喜んで頂く事も神様のまた心に通う事もないだろうと、分からせて頂いたら、いよいよ自分の心というものを大事にしなければいけない。ね。
四神様はその「だいだい」という果物をお下げになって、「だいだい丸く納まるも和賀心、丸く治まらないのも和賀心」というて桂先生にそういう御教えを実際の品物を渡しながら教えておられます。ね、これがお道の信心を頂く、まあいうなら、ポイントになるもの。この、これこそがこのだいだい、この丸いこのだいだい、だいだいこそが何時何時までも、変わらないものにしていけという働きがです、70年経っておる今日にこの頃、小倉にお参り行った時にこういうものを頂かれた、皆さん頂かれなかったですかね、帰ってから善導寺頂いたんです、頂いてないんです。これが、その写真が出てますよ。これがあの、御神璽の中にお社の中に納めてあるという事です。どうぞ一つ自分の心の中にです「だいだい」のように丸い心がいつもあるように、その事をまず願わせてもらわなければならない。しかもその丸い「だいだい」のような心をです、人にも配らせてもらわなければならん。神様それでなからなければ通じないと、ところが、私共の心がさもしいと、私共の心がいわば不自由をしておると、ね、お腹が空いておる時は食べ物の事ばっかりしか思わない。金が足りないとも、本当に金、金、金といつも金のことばっかりしかも、今私が申しますように拾うたっちゃ出させんぞちういごたるいわば、あー神様の心に通うたら、神様がビックリなさるような心が心の中にあると言う事を分からせてもろうて、ね、いかに、自分の心を豊かにしておかなければいけないか、清くしておかなければいけないかと、成程形の事を願うならまず、先に心の御繰り合わせを願わないけんという事をです、なら、心の御繰り合わせを願ごうただけではいけん。ね。いつも立つ時にはあー木の切り株に腰をおろしても礼を申しあげるような心持ちになれよと仰るけれども、そればんなら、いつもお礼を言う事ば、心の中にずーとかけておくと言う意味じゃない。そげんとはすぐ忘れる。入ってくる時には、履く時には合掌してはきよるごたるけれども、脱ぎ捨てる時はもう忘れてしまいよる。ね。それを忘れてはならんというのではなくてです、もうその心全体がです、いつもお礼を言う心にあるような、状態になることを願え、まず自分の心のお繰り合わせを願えと。ね、例えていうなら皆さんがお金の不自由なさっておられる時にです、百万円の宝くじが当たることばっかり考えておったちゃ絶対神様は(?)ですよ。ね、次の御教えの中にありますように、「濡れ手であわの掴み取りになるきになるな」と仰るのですから。もう神様のいわばそげな事ではおかげにならんと仰るのですから。ね、おかげにならん事を心の中に描いておるようなことでおかげになるはずがないじゃないですか。
昨日、一昨日ですか、竹島さんみえてからです「先生この御造営が始まってから椛目の信者一同の中にです、もう不尿意な事ばっかり。ね、皆がかえって反対のような事ばっかりなっていきよるような事実がある」というような意味の事を言われる、私それを聞きながらそれを思うた。はあ、皆がいかに御造営の事に対してですたい、もう、本当にもうそれこそ、百万でん二百万でんお供えしたい気持ちがある事だけは有り難いのだけれども、ね、その為にならそれこそ、宝くじででもよかと、もう拾うたっちゃそのお金を(?)というような、例えばそういう気持ちが皆の気持ちの中に動いておるのじゃないだろうかと。ね、がばっと入ったらお供えするよういうようなですね、まあ、濡れてで泡のつかみどりになるような心持ちなるから、私はかえって御造営が始まったら不尿意な事になっていくようなことになるのじゃなかろうか。もう、他にも色々理由はございましょう。けども、そういう心ではです御造営のすむまで、お供えをしたいという心は止むに止まれる程あってもです、その、心では神様は許されないと私は思うのですね。本当に私共が真心から祈らせてもらい、真心から、いわゆる不純なもののない、不浄な心でない心で願わせて頂くのでなからなければ、私はならないとこう思うんです。本当に「一つだいだい、丸くなるのも和賀心、丸くならないのも和賀心、おかげのあるも和賀心」とこうお書き下げ下さったという、その自分の心の中に丸い「だいだい」のような心を頂かせてもらう、しかも現物がです、こういう風にあの、硬直してそのままの、腐りもせずにですこうして残っておる、こういう一つの奇跡というものがあるようにです、もう本当に、私共の心がです、悪い心から何者にでも、吸収されない災いされない、最高の心が何時までも持ち続けられる事の為に、めぐりのおとり祓いを願わなければならん。ありがたい心がです、めぐりが吸収するところに、浅ましい心に変わり果ててしまうのですから、ね、その為にもめぐりのおとり払いを頂かなければならんといったようなことが分かります。今日はそういう意味でですね、有り難い心、神様が喜んで下さるような心、配り返されても有り難い物をです、人の心の上に人の上に誰彼の上にもです、配らせてもらう、心配りをさせてもらう、一つ心がけにならせてもらわないかんですね。 どうぞ